本当にギリギリだった
避難所に集まったときには天気がみぞれで暗 くなってあたりの景色は全然見えなかったんで すよ。女の人たちは、大体、避難所の体育館の 中に入っていたので見てないんだけど、後で話 を聞くと、松の木が倒れる音が聞こえたり、波 に追われて別の場所に逃げたりした人もいたと かで、本当にギリギリだったみたいです。
内海由美子さん・内海敬子さん の話
震災直後、消防団が車で走り回って呼びかけ をして、動けない年配の人たちを乗せて避難さ せたことが死者0人に繋がったと思います。あ とは、「何時の船に誰が乗った」っていうのを お互い大体把握できているので、スムーズに避 難できたというのも大きいかな。今まで経験し たことのない揺れだったので、絶対に津波が来 ることはわかっていましたから、即避難しまし た。津波が来るまでに40~50分経っていて、 避難する時間があったのも良かったですね。
避難所に集まったときには天気がみぞれで暗 くなってあたりの景色は全然見えなかったんで すよ。女の人たちは、大体、避難所の体育館の 中に入っていたので見てないんだけど、後で話 を聞くと、松の木が倒れる音が聞こえたり、波 に追われて別の場所に逃げたりした人もいたと かで、本当にギリギリだったみたいです。
災害用ではなくお祭り用としてですが、ちょ うど発電機を購入したタイミングで、避難所で 冷蔵庫やテレビの電源が入れられたのは不幸中 の幸いでした。燃料もドラム缶で買ってる人が 多いので、それを共有したり。だから、街の中 にいるよりは恵まれていたのかもしれません。 食材も燃料も、区長さんや消防団がトップに 立って、災害後すぐに組織づくりが始まったの ですが、前年のチリ地震のときにも、避難を一 度経験していたのも大きかったと思います。
女性部の人たちは、班編成をし、配膳係や調理係、 掃除係などに分かれ、男性は地区ごとの班で作 業をしました。協力し合う体制が素晴らしかっ たし、そんなにもめることはなかったですよ。 島の定期的な集まりっていうのは、もともと はあまりなかったけど、地区対抗の運動会や班 ごとに出し物をする演芸会とかをやっていまし た。多分、昔からなにもないところだったから、 一から自分たちで企画運営をすることで、地域 のまとまりができていたのかもしれません。