だから、協力しあってやるのが一番だと思った
また、50 年前のチリ地震津波の とき、太平洋側(桂島海水浴場周辺)だけは腰 の高さくらいまでの津波がきたことがありまし たから、「太平洋側は危ない」っていうのは島 民誰もがわかっていたんです。ですから、その エリアに住んでいる人は、高齢者など動けない 人はトラックにのせて運び、島にいた全ての住 民を避難させました。避難直後、島を超える津 波がやってきました。
内海粂蔵さん の話
当日の揺れは、言葉では表せません。家の掃 除をしていた最中に襲われ、立っていられませ んでした。常日頃、海とかかわって暮らしてい る小さな集落なので、経験のない地震でも、津 波が来ることはすぐに頭に浮かび、まず計画通 り港の消防小屋に集合し、そこから行動しまし た。東日本大震災の前年にあったチリ地震で、 70cm くらいの津波が来たんです。そのときの 津波は、陸には乗らなかったけど、そういう心 配があっての震災でしたから、やっぱり津波が 来たら逃げなくちゃっていう意識は誰もが持っ ていました。
また、50 年前のチリ地震津波の とき、太平洋側(桂島海水浴場周辺)だけは腰 の高さくらいまでの津波がきたことがありまし たから、「太平洋側は危ない」っていうのは島 民誰もがわかっていたんです。ですから、その エリアに住んでいる人は、高齢者など動けない 人はトラックにのせて運び、島にいた全ての住 民を避難させました。避難直後、島を超える津 波がやってきました。
離島なので、各々の家が食料を備蓄していま す。避難生活では、津波で流されなかった家の ものを買い取ったり、持ち寄って、婦人部のみ なさんに食事を作ってもらい、それをみんなで 食べました。お互いのこともよく知っていたの で、食料を隠し持ったりもできなかった。それ は離島ならではのことだと思います。漁師の家 にはドラム缶で何本も燃料が置いてあるので、 流れているのを拾うなどして利用しました。こ んな大災害のときのマニュアルなんてないし、 みんなと協力し合って、やっていくのが一番で すよね。朝になるとまずは避難所へ行き、挨拶 をして、予定とかを伝えながら、皆さんの意見 を聞いて…。とにかく毎日話をしていました。
奥さん方は、240人分の食事を作らないといけなくて大変だったんですよ。 最初は3食作っていたから、朝4時に起きて2時間半かけて支度していました。 そして仕事がある人から食わせていく。 食事は仕事のある人が優先で、ない人は2食だったりもしました。 男性は、作業ができるような人は70人くらいいて、全員で毎日やることを決めて島の復興に動きました。 食べることは考えていたけど、出すことは考えていなかったのでトイレの問題もおこりました。 避難所になっていた旧浦戸第二小学校の裏は山で、はじめはそこで用を足していたんです。 でも4~5日経ち、排泄物の量も増えて、それではだめになってきた。 それで「トイレを作りましょう」と。みんなで知恵を出し合いながら。 大きな野戦トイレみたいなのを作りましたよ。
トイレの排泄物の処理、燃料の補給、屋根の補修、壊れたブロック塀の片付け、道路の復旧、井戸水の汲み取り...
そういう一つ一つの作業を10人ずつ7班に別れて、当番制にして共同生活をしていました。
一番肝心なことは区長の私が判断しなくてはならないことだし、
上に立った人としてみんなの不安を取り除いていかないといけない。
前に進んでいくんだという姿勢を見せないとだめだと思いました。
一人でやっているわけではないけれども、240人を束ねなければいけないので。
日々、気持ちも状況も変わるから、今日考えたことが明日は通用しないこともある。 いつまでも過ぎたことを思ってもいられないし、これからどうしようっていう気持ちも出てくるでしょ? その中でいかに島のみんなの気持ちも考えながら、引っ張っていけるかということを毎日考えていましたね。 避難生活用の食料や毛布の備蓄は、震災後は不足しないように市や赤十字などからたくさんいただいたものが備えられ、 復旧も少しずつ進んではいます。でも、だんだん風化しつつあるのかなとも思います。
これからは、交流人口を増やすという意味でも、また観光客に大勢来てもらうとか、 活気のある島になればと思っています。 こうして、大学生とか、若い人がきてくれるのも嬉しいです。 新しい定住者も来たらいいですね。でも、「島がいいところだから」というだけで来てしまっても、実際生活が成りたたない。